薄いブログ 〜全てが薄い〜

だいたい酔った勢いで書いてる

「頭が悪い」と言われるとなぜムカつくのか

 

その昔イギリスやドイツに住んでいた頃。

現地の人と飲みに行くと8割くらいの確率で

 

「日本語で悪い言葉を教えてくれよ」

 

と聞かれます。

 

そして、だいたい僕は答えられません。

 

 

彼らが期待しているのは例えば

「F◯CK」とか「C◯NT」にあたる言葉なのでしょうが

これらの言葉の特徴は「発した瞬間、大抵の相手が激ギレする」事でしょう。

 

たとえクレアおばさんと和やかな小春日和にコテージでアップルパイを食べていようと、たった一言「f◯ck you」と言うだけでクレアおばさんは何かのスイッチが入って阿修羅の面相で襲いかかってくるでしょうし、

世界最高峰のサッカー選手であっても家族を「b◯tch」呼ばわりした相手をヘディングしてしまうほど自制心を失うわけですから。

 

とりわけ欧州に宿る言霊の力には度々驚かされた記憶があります。

 

日本語には「悪い言葉」がない?

そして、そんな言葉が日本語には無い気がするのです。

 

道行くトンチキに

「この・・・母親と性交渉に及んだ不埒者め!」と言われても

「いや、そんな事してませんが・・・」となりますし、

 

「お前の母ちゃん・・・淫売!」と言われても

「いや、あったとしても過去のことですから・・・」となります。

 

どうにも言われた瞬間に我を失って馬乗りで殴り始めるような言葉は思い当たりません。

が、記憶の奥底を探っていると、ある言葉を発見しました。

 

「おまえ、頭悪いな」

 

です。

 

「頭が悪い」を嫌う日本人?

これは僕の勝手な感覚なのかもしれませんが

日本人に「頭が悪いですね」と言うと、ものすごく怒られる気がします。

 

それに、そもそもそんな事を言う人が少ない。

 

「頭が悪いですね」自体が頭の悪そうな発言なので良くて相打ち、

あるいは「あいつは人の悪口を言う」と悪評が立つから不利益しかない、

そんな事も分からず悪口を言っている時点であいつは頭が悪い、

と逆にブーメランのように自分に直撃するからかもしれません。

 

そんなの世界共通じゃね?とも思っていたのですが

イギリスの工学部で勉強していた当時、

学年主席のインド人とプロジェクトを共にする機会がありました。

(バランスを取るために学年主席はバカと組まされるそうです。あれ、涙が)

 

そいつはムカつくインド人だったので便宜上アホジャンとしましょう。

 

プロジェクト中は四六時中一緒に働くことになるわけですが

まぁアホジャンは息を吐くような頻度で「君は頭が悪いな」と言ってくるので

終始「俺は頭が悪いわけじゃない。問題が1つも解けないだけだ」と答えていました。

 

死ぬほどムカつく野郎には違いないし、

もし改めて会う事があれば全財産を引きずり出したうえでマナウスのジャングルにでも放置して3日経って息も絶え絶えになったところを優雅にジープで迎えに行って「君はサバイバル能力が低いな」とか言ってやりたいのですが

 

時たま僕が正しい事をいうと

 

「あ、確かに君が正しい」

 

と認めてくるわけです。

そう言われると飛び上がるほどの喜びを感じる自分が恥ずかしい。

数分後には「君は頭が悪いな」と繰り返すのですが。

 

頭が悪い=身長が低い

ところが101回目の「君は頭が悪いな」を言われたとき、僕が意を決して

 

「ねえ。そんなに頭が悪いって言われると、さすがに傷つくんだけど」

 

と伝えたところ

 

「え?そうなの?」

 

と返されたのです。

 

どうやらアホジャンは「頭が悪い」という事を「身長が低い」程度に捉えていたらしく

 

「君の頭の悪さは努力うんぬんでは覆せないモノ、つまり先天性だ。人は生まれ持つ才能を選べないし、君が知能に恵まれなかった事実を恥じる必要は何一つ無い」と、僕を優しくフォローしたのです。

 

ぶち◯してやろうかと思いました。

 

でも確かに冷静に考えてみると僕とアホジャンの頭はピーナッツとスパコン並みに性能差があり、

僕が健気に2x8を計算している間、彼は鼻くそをほじりながら惑星直列の周期を計算している。

そんな異次元の存在だったので、彼から見たら僕の知能レベルは天に見放されたに等しく、まるで気にする必要はなかったのでしょう。

 

そして、それ以降はアホジャンの「頭が悪い」攻撃、ひいては「頭の悪さ」という尺度を意に介さぬようになったのです。

 

世の中にはアホジャンみたいな天才がいくらでも居る。

そんな中、ドングリの知恵比べをしてどうするのか、と。

 

頭が悪いと言われるとムカついたワケ

アホジャンと会うまでの僕は

「君は背が低いな」と言われても「いや、そういう体質で」と返せるのに

「君は頭が悪いな」と言われると「いや、そういう体質で」とは返せませんでした。

 

勉強して、試験で良い点を取って、志望校に合格する

 

そんな過程を繰り返すうち、いつの間にか「頭の良し悪し」は先天性ではなく努力でどうにかなるもの、

つまり頭が悪いという指摘は努力をしなかった己が招いた結果であり

努力をしなかった怠惰をなじられた恥辱を怒りで誤魔化す。

そんな防御メカニズムが働いていたように思うのです。

 

特に日本は識字率、就学率も世界屈指の高水準でしょうから

世界平均と比べると、ほぼ同じスタートラインから走り出しているわけです。

 

だから「頭が悪い」と言われると

「お前は怠け者だ」と言われている気がして、恥ずかしかった。

それが僕のムカつきの正体だった気がするのです。

その感じ方の一部は正しいと今でも思います。

 

反面、インド人のアホジャンに関しては恐らく

「そもそもスタートラインが違うのが当たり前」という環境で育っているわけですから、

生まれ持った頭脳、初等教育の有無、親の裕福度、様々な運的な要素が影響するからこそ、頭の良し悪しを「身長」くらいに感じていたのかもしれません。

 

その感じ方も正しいと思います。

 

そんな根本の価値観が違うアホジャンにアホ呼ばわりされる1年を経て、

今では「頭の良し悪し」という曖昧な尺度で競うことに、さほど意味を感じていません

 

努力をまるっと放棄するのとは違います

 

ありもしない目盛りに背伸びするのではなく、

自分が好きなものを、好きだから努力すればよいのでは?

 

時として競争が適度な緊張感を生む事こそあれど

 

好きだから、やる。

もっと上手い人が居ても構わない。

好きだから、やり続ける。

 

なんだか、これが人間としての素直な努力の喜びなのかな、と感じています。